昔の漁法
「摂津国漁法図解」を紐解く
府立中之島図書館に「摂津国漁法図解」という一幅の掛け軸があります。
これは、明治16年に東京上野で開かられた「第一回水産博覧会」に、福村の樋上彌助氏が出品されたものです。
この掛け軸に描かれた内容について、大和田郷土史会の方々が会報紙面上に再現された内容をご紹介致します。
かつての先人たちが大阪湾で、創意工夫を重ねた網具や漁具を用い、採魚していた事をうかがい知ることができます。
当サイトでは、これらの貴重な資料を順次掲載し、後世に伝えていきたいと考えています。
資料:大阪府漁業史 大和田郷土史会報
ツルヒキアミリョウ
大和田・九條
【採魚】
ボラ・フナ・コイ・ナマズ・大口・ダボハゼ・川キス
【採法】
船2艘、漁夫12人で一組とし、網は苧網(からむしあみ)、長さ130cm程、裾を袋にし、両端に50M程の縄をつける。干潮を待って網を入れ二艘櫓で浮瀬に引き寄せ、漁師は瀬に上がって手繰り寄せる。舟は長さ約9M、巾約1.5M、碇は二丁、浮は24x9㎝の杉板を約45㎝間隔でつける。
錘は長さ約4.5cm重さ約22.5gを約14.4Mのところへ140個ほどつける。
大和田ではこの漁法を「ズル」と呼んでいたと聞く
地引網のようなもので、網の裾が袋になっている。
トアミリョウ
大野・福
【採魚】
ボラ・フナ・コイ・チチカブリ・イワシ
【採法】
投網は、手綱の長さ約10~12M、網は長さ5~7Mで周囲約32Mの麻製、網目は5寸(約15cm)につき8または10結ぶ。
錘は鉛で22.5gのものを180~200個つける。
舟は長さ約6.2M、巾約1.2M。
漁師二人で乗り組む。
竹で作った定規があり、それを使って網を結んだ。昔の網はすべて漁師の自前。
網の下部は荒く、上部が細かくなっているが、途中で矢串を変えて編んでいる。
網を編む人は暗算が得意だった。
昔は綿や麻の網だったので、柿渋を防腐剤に使い染めていた。
タテアミリョウ
天保
【採魚】
コノシロ・チチカブリ・カニ・アカエイ・ハゼ・シラウオ・アユ
【採法】
網は高さ9cm、横は1枚が約28M。舟一艘に二人乗り組み、網を約50枚繋いで使う(約1.4kmになる)
この網の両端に浮樽をつけ、日没より漁場に出て網を海底に沈め碇泊する。一夜明けると網を揚げ魚を取る。
タテアミとは底引き網とは違い、網をまっすぐ海底にたてる。
マカセギアミリョウ
大和田・福・佃・大野・野田
【採魚】
タチウオ・ハヤ・エビ・イワシ・ウボデ・タコ・イカ・チチカブリ・青前魚・ハモ・ハマチ・アジ・マナガツオ等
【採法】
網袋は五寸につき二口結び。錘は約112gのものを手先網には24cm間隔、中網で21cm間隔、網袋で18cm間隔でつける。
網は綿製、長さ約240M、巾約11Mで、中央に長さ・回り共に6Mの袋をつける。
前舟・片舟は、長さ約10~12M、巾約3Mで、中央に周り約3M・12本の棒付きの轆轤(ろくろ)を置いた四丁櫓、網の両端には約1kmの網をつける。
手舟は3艘で、長さ約7M巾約1.2Mで碇をもつ。
浮と碇の網は棕櫚製、他は藁製。
漁師33人舟5艘で一組。
網舟と片舟に3人乗り組む。
残り3艘は手舟で主たる漁師が一人ずつ乗り、一艘は網袋のところで魚の様子を確認し夜間では松明で合図を送る。これを瀬取と言う。
この松明を目標として他の四艘が集まり網を投入、網舟片舟は約1kmの網を伸ばして碇泊し轆轤を巻く。このとき瀬取舟は網の中央に舟を縛り、夜間では松明、昼間は大きな杓で轆轤の引き加減を指図する。その後、一艘の手舟は新しい漁場を探しにゆく。
轆轤を巻き浮き樽が接近すると、片舟は碇を揚げ網舟に漕ぎより網舟に乗り移り網を手繰る。
この時二人が飛び込み足で網の錘を絡ませる。そこへ二艘の手舟が来て網玉で魚を手舟にすくい上げる。
※大和田・佃・大野の舟はここに書かれている舟よりも小さかった
マキリョウ
大野・九條
【採魚】
ハマグリ・サルボ・アカガイ・アサリ等
【轆轤(ろくろ)】
長さは約91cm、回り約61cm、爪は六本で各36cm程、樫で作られている。
【カテ】
(貝を取り込む部分)約85cmの樫の桁に約24~30cmの鉄釘を3cm間隔に熊手のように植え、その上に30cm程の柱を立て、そこに竹を取り付け額縁のように造る。その額縁に綿糸の網袋を取り付け横木に5.6kg程の意思を縛り錘とする。
【採法】
長さ約7.2M、巾約1Mの船の舳(へさき)に轆轤を設置、漁師一人が乗り、棒を付けた「カテ」に約71cmの網をつけて海底に沈め、約180M隔てて立てた棒に縛った網を轆轤に繋ぎ、漁師が轆轤を足踏みして「カテ」を海底で引きずり漁をする。
カチアミリョウ
大野・野田
【採魚】
ボラ・セイゴ等
【網】
竹の長さ約4.5M、網袋の大きさ約10M四方の綿製で網目は1.2cm~1.5cm。
【鵜縄・板縄】
鵜羽の長さは約18cm、板は30x6cmで、百枚ほどつける。中央に大板五枚をつけ、全長約180M。
【採法】
人数六人舟三艘で一組とし、一艘に二人ずつ乗り組む。内一艘は網舟で他の二艘は手舟。
手舟二艘が左右に分かれ、鵜縄または板縄を水中に投げ入れ、魚を追い寄せる。
網舟の二人は水中に入り、左右に分かれて網を張り魚を待ち受ける。
※魚が取れすぎるため鵜羽が使えなくなったという
サデアミリョウ
福・野田
【採魚】
ウナギ・フナ・ハゼ・諸魚
【漁具】
竹の長さ約1.5M、袋の長さも役1.5M。網は綿製で網目6mm。これを「サデ」と言う。
追い竹は約3Mで、すべて細い竹を使う。
【採法】
漁師左手に「サデ」を持って水中に入り、右手の追い竹で魚を網に追い込む。
ヨツデアミカセギリョウ
佃・大和田・野田・難波
【採魚】
フナ・コイ・ツカミコイ・コダコ・ハゼ・カニ等
【漁具】
網輪は棕櫚縄で作り、筒と網竹の仕組みに使う。金輪は鋳物で長さ約33cm、横15cm、重さ1.5Kgの輪で、筒と前棒の仕組みに使う。草覆いは網竹の先につける。網は苧で造り、網目約15cmに35~36結ぶ。長さ5.2M、巾約6.1Mで扇型。
【採法】
舟一艘に二人乗り組み、夜間海辺に出て船の中央に篝火(かがりび)を焚き、網を海中に入れ、漁師は艫と舳に別れ梶棒で36Mほど押し進め、網を上げてアミ玉で魚をすくう。
タグリアミリョウ(手繰網漁)
難波・天保
【採魚】
タコ・エビ・イワシ・太刀魚等
【採法】
網袋は長さ約5・5M、巾約6.1M、袖網は長さ約12.1M高さ約1.8Mのものを繋いで約270M、網の長さはそれぞれ約54Mのものを両端に着けその先に票樽をつける。
舟一艘に漁師二人乗り組み、漁場で一人は櫓を押し他は網を順次投げ込み、樽を目標に一周すると碇を入れて樽を回収、漁師は舳艫に別れて網を手繰り上げ漁をする。
※この漁法を大和田では「シモンドリ」という。
ウオヤナスリリョウ(魚梁簀漁)
野田・福
【採魚】
ウナギ・エビ・カニ
【採法】
竹簀の長さは約1.2M、巾0.9M、柄の長さは1.2M。
堤防の際や川岸の淀みに設置する。
俗にモドリと言う。
これはスモンドリという。魚の集まりそうなところに簀を張り、モンドリを仕掛ける。
モンドリに竹の柄をつける。簀はよし簀。
※昔、大和田川では、シバなどを沈めているのをよく見たが、今では見ることもできない。
スマキリョウ(簀巻漁)
九條・難波・野田
【採魚】
(伝承なし)
【採法】
満潮のとき、葦の茂った浮州を簀で囲い魚の走路を断ち、干潮時に魚を獲る。
※明治中期までは、安治川や尻無川で行われていたようです。
コイツカミアミカセギリョウ(鯉抓網稼漁)
福・大和田・野田
【採魚】
鯉
【採法】
網の長さは約4.5M、横約15M、網目約3.6cm。全て太いカラムシ糸で作る。水流が強いので櫂竹で網を張り巡らす。囲いのそばに舟を繋ぎ、漁師は櫂竹で鯉を追い手でつかむ。錘の目方は約45g、カラムシで約10.6cm間隔でつける。舟の長さは約7.2M、巾1.2M、一艘に三人づつ二艘に乗り組み、漁場の周りを網で囲み数人が水中にもぐり鯉を手づかみにし、船の漁師に渡す。
※先祖が殿様の前で鯉つかみを実演し、口、手、脇、股などを使って一度に六匹を掴み、鯉屋六兵衛の名をもらったとの伝承があります。(八木氏談)
タンポウナギリョウ(タンボ鰻漁)
福・野田
【採魚】
ウナギ・ハゼ
【採法】
筒の長さ約60cm、周り約18cmで節を抜いた竹を使う。
堤防の傍、水はね杭の間などに筒を沈め、時間を計って漁師が水中に入り、両手で(竹の)口を塞ぎ取り上げる。
※タンポ(節を抜いた竹)には餌は入れなかったようです。
エイツキリョウ(鱏突漁)
大野・福・野田
【採魚】
アカエイ・カレイ・コチ・カニ
【採法】
鉾の長さは約1.2Mか1.5Mで鋳物で作る。切っ先は約15cm、漁場に出て海へ入り魚の居場所を確かめて鉾をさす。
※エイは大きいものも獲れていた。エイを獲ると暴れるので、他と別けねばならなかった。
※エイの針には毒がある。大きいものは畳半畳くらいもあり、針が刺さると死ぬこともあった。
※エイ獲り専門の人がいた。
ハマグリリョウ(蛤漁)
福・野田・九條
【採魚】
ハマグリ・シジミ
【採法】
柄の長さ約1.5M、網の長さ1.8M 網目は約1.8cm。
この道具を「カテ」と言う。
漁師は干潮の時、船を浅瀬に止め水中に入って「カテ」で27~36M水底を掻き貝を採る。
※大和田ではこの道具を「アケミ」と言う。
※蛤や蜆以外にアケミ貝が取れる。これは魚の餌にするけれど、生で食べても豆腐と煮てもうまかったという。
資料:大阪府漁業史 大和田郷土史会報