大阪市における漁業団体の歴史
近世・・・江戸時代
西 暦 | 概 要 |
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1600年頃 | 佃、大和田村の両村において、慶長年間(1596年~)において徳川家康が摂津多田神社へ参詣の際、船で神崎川の渡しなどを行った功により江戸城への魚献上を務めることとなる。(この役の為その後全国規模での漁業特権を獲得する) |
1644年 | 両村の一部の村民はお役の為江戸に移住し、鉄砲洲の向かいにある三角干潟を幕府より貰い受け築島工事を敢行。正保元年(1644)に「佃島」となる。 |
1737年 | 大和田村の漁師、尼崎の漁師と争論。 大和田村側が尼崎側に入込漁業。 |
1742年 | 磯村根付の魚介は地元漁村の占有とし、沖合遊回の魚族は自由漁業と定める。 |
1746年 | 尼崎打瀬網漁師が尼崎浦にかけ打瀬網での漁労を磯から一里半に限りその外は自由となる。 |
1788年 | 堺浦と大阪五ケ村(野田村・難波村・九条村・大野村・福村)漁師と争論。 |
1791年 | 大阪方と堺浦の争論、両浦入込で落着。 |
1799年 | 従来通りの入込漁の確認。 |
1811年 | 鳴尾村漁師と佃村漁師の争論。佃村が勝利入込。 |
1814年 | 網島漁師と大和田漁師の争論。大和田勝利入込。 |
1857年 | 佃、大和田の漁師、兵庫、和田岬(南濱)役人宛、漁業自由の訴えを起こす。 |
1861年 | 佃漁師 2月から備中、讃岐の操業を奉行所に嘆願。 |
近代・・・明治から昭和へ
明治19年大阪府では農商務令に基づく漁業組合準則による漁業組合の組織を奨励しましたが、市内では設立はなく、その後明治28年に大阪港湾漁業組合が設立されましたが長くは続かず、程なく解散してしまいます。
明治33年に至って「大阪漁業組合」が設立されました。
この「大阪漁業組合」は、旧大阪市内のみにならず、西成郡の千船村(現在の千船町・大野町)・ひめ(のぎへんに卑)島村・歌島村・福村・伝法村・勝間村・小浜村・津守村及び東成郡の墨江村・敷津村など、一市十カ村を包括する広範囲な組織となります。 しかし、広範囲であるがゆえに却って円滑な運営を期し難く、翌34年の漁業法が制定されたのを機会に解散してしまいます。
これに代わって「大阪市漁業組合(現在の出崎地区が中心)」「千船漁業組合」「福村漁業組合」の三組合が設立されました。 昭和6年、この西成郡地区もすでに大阪市域となっていることから三組合が合併して「大阪市漁業組合」となり、その後昭和13年に「保証責任大阪市漁業組合」となり、18年には団体統合の法令公布により「大阪市漁業会」となって、生産・販売の一元的統制業務を行いました。
そして終戦後、昭和24年に水産業協同組合法(※1)に基づいて「大阪市漁業協同組合」が設立され今日に至ります。
西 暦 | 概 要 |
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1886年 | 大阪府にて農商務令に基づく漁業組合準則による漁業組合の組織奨励される。 |
1889年 | 明治22年、町制が実施。佃村・大和田村・蒲島新田・大野村・百島新田の5村が合併し、千船村へ。 |
1895年 | 「大阪港湾漁業組合」設立するが、ほどなく解散。 |
1900年 | 「大阪漁業組合」設立。 |
1901年 | 漁業法制定。「大阪漁業組合」解散。 「大阪市漁業組合」「千船漁業組合」「福村漁業組合」設立。 |
1925年 | 西成郡は大阪市に編入。西淀川区に。 |
1931年 | 上記「大阪市漁業組合」「千船漁業組合」「福村漁業組合」が合併、「大阪市漁業組合」設立。 |
1938年 | 「保証責任大阪市漁業組合」となる。 |
1943年 | 団体統合の法令公布。「大阪市漁業会」となり、生産・販売の一元統制へ。 |
1947年 | 水産業協同組合法が公布。(※1) |
1949年 | 水産業協同組合法に基づき「大阪市漁業協同組合」設立。 |
1960年 | 小型機船底曳き網漁業の兵庫県摂津海区への入会協定締結。 |
1966年 | 大阪湾漁業調整協議会発足。 「大阪湾漁業協定書」成文化。 |
1967年 | 機船船曳き網漁業の禁止解除。 大阪市漁業協同組合に許可枠(3統)設定し以後順次許可枠を南部に拡大。 |
1976年 | イカナゴ機船船曳き網漁業許可。 |
1980年 | 底曳き網漁業からの転換パッチ許可。 |
- ※1 昭和22年12月15日法律第242号により水産業協同組合法が公布され漁業改革がなされ、従来の漁業会は同日付けで公布された水産業協同組合の制定に伴う水産団体の整理に関する法律をもって解散し、協同組合法により漁業協同組合・漁業生産組合・水産加工業協同組合となって新発足することになった。このため全国の漁業会は漁業協同組合として発足し、海区または府県に一連合会の設立をもってすすんだ。